FC2ブログ

創世記から福音書を見る 「彼らの信仰を見て」 

 この箇所では、屋根から、中風の人の寝床を、ちょうど人々 の真ん中のイエスの前につり降ろすという話が記録されている。
 イエスは、「子どものように神(創造主)の国を受け入れるものでなければ、決してそこに、入ることができません。」(ルカ18:15~17)と言われた。
 子供は、一度信頼すると、一心不乱に飛び込んでくる。疑うことも、遠慮することも知らない。神の国はそのような者の所であると教えられた。このルカ5:18~26に記された中風の人の話は、そのことを具体的に示されたと思われる出来事である。
 中風をわずらっている人とは、今でいう卒中か脳梗塞などで、自分の意思どおりに身体を動かすことができなくなった人のこと。彼は自分の将来の希望を全く失った。しかし、良き友がいて、彼をイエスのところに連れてきた。 ただイエスのところに行きさえすれば希望があると思ったからであろう。彼らの信仰を見て、イエスは「友よ。あなたの罪は赦されました」と言われた。
 彼らは、中風の癒しを求めて来たのだろうが、イエスはまず罪の赦しを告げられたことは、奇妙な印象を受ける。しかし、創造主イエスが人となってこの地上に来られた最大の意味は、私たちの罪の赦しのために身代わりに十字架にかかることであった。 イエスにとっては一時的な肉体の癒しより、罪を赦すことが優先であった。
 では、なぜ、私たちは赦される必要があるのか? (前回の最初と最後のアダム参照)
 創造主である父は人を造られた。しかし、最初の人であるアダムとエバ(その子孫である私たちも)は創造主である父から離反してしまった。 それで、父は、そそのかして人質としたサタンと共に彼らが永遠に生きないように死を起こされた。(創世記3章)父は私たちを愛するがゆえに、御子キリストをその罪の身代わりの罰として十字架に付け、私たちを返還させる身代金とした。父はすべて準備を整えて、ただ私たちが何の取引、交換条件なく父の元に返ることを待っておられる。
 このことから、私たちが救われる必要がある罪とは、創造主から離れたこと。逆に、罪赦されるとは、ただ創造主のところに来る(帰る)ことである。
 イエスは、“彼らの信仰を見て”、「友よ、あなたの罪は赦されました」と言われた。
 イエスは、創造主ご自身である。イエスは彼らが、ただ、イエスのみに希望を見出して、イエスのところに行きさえすればという信仰を見て取られたのだろう。イエスは「心が貧しい人は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」(マタイ5:3)と言われた。中風をわずらったその人は、全く希望がなく(心が貧しい)、イエスにのみ希望を見出そうとし、イエスのところに行こうとした。 彼は、自分で何でもできると思っている人よりも、その最も大切なことがわかりやすかったかもしれない。
 中風の人を連れてきた友人たちも罪が赦されたのだろう。友人たちは、身近に関わったこの中風の人を、なんとかしてやりたいが、自分にはできない。そのとき、彼らは彼をイエスのところに連れてきた。 イエスが教えられた祈り、すなわち、旅人に差し出すパンがないとき、・・・(ルカ11:5~13)と同 じことを実践している。
私たちは、よく錯覚する。救われるためにまず、自分を整える必要を、あるいは救われてからも、主のために何か際立った大きなことをすべきだと考え、がんばらなければというプレッシャーを感じることがある。
 しかし、救いは、自分が救われなければならない存在であることを知って、ただ、イエスのところに来ること。そして、私たちの人生の歩みは、自分に関わった人の必要が見えるが、自分にはそれを満たしてやるものがない。そのときに祈り、あるいは、共に主イエスのところに来ることではないだろうか。

skin presented by myhurt : BLOG | SKIN
  
copyright © 2005 (n‘∀‘)η豊田バプテスト教会 活動BLOG all rights reserved. Powered by FC2ブログ