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証し~ここは主におまかせする以外ない 

〔安井師の証し〕
 信仰を持ったとき、生活も祝福されるという期待がありました。受洗して、すぐに海外転勤し、そこで待ち受けていたことは、仕事において自力で解決できない問題でした。

 仕事は自分でがんばってきたという自負がありましたし、仕事と信仰は別物と考えていました。しかし、そこで起こったことは仕事で自分の存在性を失うという試練に直面し、主に解決を祈り続けることになりました。数年が経ち、解決を待ちきれず、良さそうに映った人に全面的に頼ろうとしてしまいました。主は私に起こった事と、第1コリント10:14~15のみことばを通して、人に頼ったことの間違い(偶像礼拝)を示され、その後ご自身が備えて下さっていた計画を成し遂げてくださいました。

 私は今、いっそうの試練の中にありますが、かつて主が私に成してくださったことが忘れられず、期待して解決を待っています。

〔メッセージのポイント: ルカによる福音書1:26~38より〕
 キリストを信じよう、あるいはクリスチャンがキリストを中
心とした生活をしようとするとき、不安や戸惑いを感じてしまいます。また、予期せぬ問題に直面することがあります。
なぜでしょうか? かつての人間中心の慣れたやり方を改革していくことになるから!

 クリスチャンになったら人生がばら色になるのでしょうか?~ 必ずしもそうではありません。世にあっては艱難があります。(ヨハネ16:33) クリスチャンも例外ではありません。むしろ、近視眼的な幸せではなく、本物に気付かせられるためではないでしょうか。

 ヨセフのいいなずけであった乙女マリアはキリストを解任するという御使いのお告げにたいそう戸惑いました。「どうして、そのようなことになりえましょう。」~ 処女なのに子どもが生まれると言われたことに対するマリアの当然の反応です。彼女は自分の身に起こることを受け入れると窮地に立つことがわかっていました。・・・すなわち、ユダヤの律法的風習である石打ちの刑、家族にとっても恥、婚約の解消など。しかし結局マリアは決断します。すなわちその窮地を自分で解決できないことを認め、主にゆだねました。結果として、マリアの賛歌(ルカ1:46~55)に至り、キリストを宿します。マリアは(マタイ5:3)でいう心の貧しい人でありました。その意味は弱さを認め、ゆだねること。

 人々は主に任せるのは「弱くて無責任」だと言います。しかし、自分を良く知っている絶対愛なる方に任せることは無責任でしょうか? 信じるとは任せること。 主はネタをそろえておられます。主は私たち個人に計画を持っておられます。信仰の正念場です。強い信仰が必要でしょうか? ルカ17:6 からしだねほどの信仰があったら・・

 もし順風満帆に自分の思い通りに事が運んでいたら・・・すべて自分でやってしまうでしょう。 私たちに太刀打ちできない問題が起こってくることは、むしろ主に任せるチャンスです。 では、主にお任せすると私たちは何もせず操り人形のようになるのでしょうか? いいえ、主は私たちに分担分を任せてくださいます。 そして、主はご計画を成され、私たちを通して主ご自身に栄光を帰される、すなわち私たちが主をほめたたえるようになります。

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